社会【基本】日本の歴史 弥生時代

問1

下の表は弥生時代(紀元前10世紀ごろ ~ 紀元後300年ごろ)の主なできごとをまとめました。 \(\boxed{ }\) に当てはまる言葉を答えなさい。

できごと答え参考サイト
大陸から九州北部に米づくりの他に金属器も伝えられた。金属器の銅鐸どうたく銅鏡どうきょうなどの \(\boxed{ }\) は主に祭器として用いられた。■■■🔎
米づくりは紀元前2世紀ごろには日本列島北部の \(\boxed{ }\) 県まで広まった。■■■
米づくりでは \(\boxed{①}\) で作られたすきやくわで田を耕して、 \(\boxed{②}\) を使っていねを収穫し、 \(\boxed{③}\) に収穫した稲をたくわえた。①:■■■

②:■■■

③:■■■
①:🔎

②:🔎

③:🔎
明治時代に初めて発見され、東京都文京区の地名から \(\boxed{ }\) 土器と名付けられた。薄くてかたく文様もんようの少ない特徴を持つ。■■■🔎
米づくりが広まると、良質な水や土地などをめぐって争いが起きるようになり、人々のあいだに \(\boxed{ }\) の差が広がった。■■■
集落しゅうらく(むら)のかしらは \(\boxed{①}\) と呼ばれ、しだいに規模の大きい小国(くに)が成立すると頭は王と呼ばれるようになった。紀元前1世紀ごろには日本には100あまりの小国が誕生した。敵の侵入しんにゅうや獣などから集落を守るため周囲に堀をめぐらせた \(\boxed{②}\) 集落がつくられるようになった。①:■■■

②:■■■
①:🔎

②:🔎
佐賀県にある集落としての規模は最大で環濠集落の \(\boxed{①}\) 遺跡いせき、静岡県にある \(\boxed{②}\) 遺跡では水田の跡が発見され稲作が盛んに行われていた。 \(\boxed{③}\) 遺跡は福岡県にある日本最古の稲作集落跡といわれている。①:■■■

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③:■■■
①:🔎

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③:🔎
中国は日本のことを \(\boxed{①}\) とよんでいた。このことは中国の書物 \(\boxed{②}\) に日本のようすとともに記されている。①:■■■

②:■■■
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1世紀に \(\boxed{①}\) (福岡市にあった小国の名前)の王が後漢ごかんに使いを送り、皇帝から \(\boxed{②}\) と刻まれた金印を授かった。このことは中国の書物 \(\boxed{③}\) に記されている。この金印は江戸時代に福岡県の \(\boxed{④}\) しまで出土した。①:■■■

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3世紀ごろ30余りの小国を従えた邪馬台国やまたいこくの女王 \(\boxed{①}\) がまじないによる政治を行っていた。239年 \(\boxed{①}\) はに使いを送り、中国の皇帝から「 \(\boxed{②}\) 」の称号しょうごうや銅鏡などを授かったことが、中国の書物 \(\boxed{③}\) に記されている。①:■■■

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①:🔎

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問2

下の地図は縄文時代の遺跡と弥生時代の遺跡を数で色分けしました。縄文時代は東日本、弥生時代は西日本に多く遺跡が発見されているのはなぜですか?

Wikipediaのデータより当サイトが編集
答え
縄文時代の主食はドングリなどの堅果類けんかるいであるが、東日本はそれらが採れる樹木が多かった。弥生時代になると、食生活は稲作となり稲の栽培に適した気候の西日本へと移り住むようになったため。